めんおうブログ

国家公務員からラーメン業界への転職を決意した、30代男性(妻、子2)の経験と思いと挑戦。時々、本などのブログ

たくさんのブログ記事を読んで思った。みんな、心のどこかに「ふた」をして生きているのかもしれない。(転職後14日目)

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先日、「店に省時代の同期が来て、複雑な気持ちになった。」という記事を投稿しましたが、昨日、今日を含めて、これまでいろいろな方のブログ記事を読んでいて感じたことを記録しておきたいと思います。

 

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本日の業務内容

【1月14日】

0815起床

1115出勤予定

感じたこと

これまで、本当にたくさんの方のブログ記事を読ませていただいた。読んでも読んでも終わりはなさそうに思えた。どれくらいのブログ開設者がいて、どのくらいの記事があるのかはわからないが、確かなのは、ブログ開設者の数だけその目的がある、ということである。

 

ブログを始める、ということは時間も労力もかかることであり、究極的には必要のないことである。ブログを始めて1カ月しか経っていないわたし自身が感じたことではあるが、ブログ開設には登録して、お金を払って、URLを取得して、ブログをデザインして、毎日何を書くか考えて・・・これには、時間も労力もかかる。要するに手間がかかるわけである。

 

 

 

では、なぜ、その手間のかかることをわざわざするのか(もちろん、今は面倒な設定作業等はすべて終えているので、記事を書くことはとても楽しいですよ)。ここで、多くの方の記事を読ませていただいて思ったことを書きたい。

 

 

 

すべてのブログには、そのブログテーマがあり、記事にもタイトルがついている。それは、ブログをやめるまでどのような記事を書いていきたいか、ということを表すものである。わたしは、転職、家族、子育て、暮らし関係の記事を読ませていただくことが多いが、「こうありたい」という気持ちを込めたブログや記事が多いな、というように感じた。例えば、先日の記事に投稿したように、ずぼら、ゆるい、まったり、豊かな生活など。わたしも、転職後の挑戦、ということで、その挑戦が実りあるものになることを祈っている。どこか、スローガンにも似たようなところがある。

 

 

 

スローガンという言葉にわたしが初めて出会ったのは、小学生の時で、「あいさつしよう」とか「いじめ、かっこわるい」というようなものだったと記憶している。それ以降、中学、高校に進み、社会人になっても、スローガン的なものはどこの組織にも存在した。巷にも「交通事故ゼロ!」、「ダメ。ゼッタイ。」のようなものがある。わたしのいた省のある部署にも「敬礼しよう」という、一見小学生の「あいさつしよう」レベルのスローガンも存在した(レベルが低くて恐縮です)。

 

スローガンというものは、組織が「こうありたい」という姿を呼びかけるものであり、現状そうなっていないものが表れるものである。敬礼できる組織が「敬礼しよう」などというスローガンを掲げるはずないのである。

 

 

 

これに習って言えば、ブログだって、現状から「こうありたい」という方向にブログテーマを定めて、これに沿った記事を書いているのではないだろうか。

 

 

 

わたしは、「こうありたい」ということを願いながら記事を書いているが、誤解を恐れずに言えば、これは一種の現実逃避であり、「これでいいんだ」というあきらめや思い込み(信じること)を繰り返しながら、考えたことを将来や過去に向かって書いている。心のどこかに「ふた」をしながら、遠くを見ながら前に進むのである。

 

前に進む、とは、人それぞれの価値観に従って人生を歩んでいくことである。人生どうあればいいのか、価値観がどうあればいいのか、ということは、だれも答えを教えてくれない。自分で仮の答えを決めて、それを人生を通して正解にしていくのである。前に進めば進むほど「ふた」をしなければいけないこと(現時点で答えがでないので、とりあえずの答えを出しておいて納得すること)が増えていく。「ふた」をしたことを含めて、正解かどうかは、人生終えるときに自分が決めることである。この正解への道筋を記録していく作業、これがブログであると思う。

 

記録するためには、もちろん、その「ふた」の重さ、形、柄、色など、その時した「ふた」をよく観察する必要がある。記録するという行為は、その時の出来事、気持ちや感情を整理することであり、とても価値のあることなのである。

 

 読ませていただいた多くの記事も、わたしと同じような姿勢で書かれているものが多かったように思う。

 

わたしの場合は、現時点で転職が成功だったかどうかはわからない。だから、「ふた」をして(とりあえずの答えを出して納得しておいて)、転職してよかった、と思えるような方向に進もうとしているのである。自分だけでなく、家族や周りの人たちにとっても。

 

このような人は、多いのではないだろうか。みんな、心のどこかに「ふた」をして生きているのかもしれない。

 

「ふた」をすること自体、まったくわるいことではない。むしろ、将来のことはだれもわからないことなのであって、「ふた」することは、必要なことなのである。みんな、何かしらに答えが出せずに苦労している。苦労しながらも、楽しく、充実した毎日を送っていて、それを記録しているのである(正解への道筋を記録している)。

 

 

 

 

 

わたしは、これからも、自信と誇りをもって「ふた」するところには「ふた」をしながら力強く前に進んでいきたい。

 

 

 

こういう生き方をした、生きててよかった、と心の底から思えて、周りにありがとう、と感謝しながら終えられる人生を送りたい。人生を終えるとき、そのときこそ、すべての「ふた」を開けて真に納得するときなのである。それまでは、心のどこかに「ふた」をしていていいのだ。