めんおうブログ

国家公務員からラーメン業界への転職を決意した、30代男性(妻、子2)の経験と思いと挑戦。時々、本などのブログ

店長の手を見た。「手」が伝えること。(転職後34日目)

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店長の手を見て感じたことを記録しておきたいと思います。

本日の業務内容

【2月3日】

0700起床

0715~0800出勤

0815~2000仕込み、サブ(休憩なし涙)

2000~2030まかない

2045~2215帰宅

0130就寝予定

感じたこと

わたしは、通勤には電車を使っており、2回ほど乗り換えがある。出勤時は電車の本数が多く、乗り換えがスムーズにいくが、帰宅時は、「下り」ということもあって電車の本数が少なく、乗り換え時に待たされることが多い。

 

 

 

今日も、最後の乗り換えの際、寒い中10分と少し待った。

 

 

 

帰宅の際、いつもの時間、いつもの場所で決まって10分待つ。外は寒いので、ホームの中央にある小さい待合室で待つのがいつものパターンである。その待合室にはベンチが8脚ほどある。外が寒いので、待合室がいっぱいでもたいてい中で待つことが多い。狭い部屋だし、だいたい同じような時間帯での電車待ちなので何人か、見たことのある顔もある。

 

待合室の中では、みな、思い思いのことをしている。脚を組んで眉間にしわを寄せながらスマホをいじっているおじさん、うつむいて首をたれ、居眠りをしているおねえさんなど。みな、それぞれのことで疲れて、その脚で家に帰るのである。わたしは、この時間のこの空間が好きだ。待合室に集まった人は赤の他人同士であるが、どこか心が通じ合っているような気がする。疲れた脚で家に帰る途中、同じ時間と空間を共有し、これから家に帰るという目的まで共有しているからだろうか。ホームの外は暗いが、ホームは白い明りに照らされ、待合室の中にも明るい照明がある。疲れて家に帰る途中の、ほっと一息つくことが許された、自分だけの時間なのである。

 

 

 

今日もその待合室のベンチに座って、脚を組み、リュックを下ろして最近読んでいる本「ユートピア」を取り出す。寒いなぁ、と思いながら、取り出した本を腿の上に置いて両手の手のひらを上下にこすって手を組む。本を読もうと思っていたが、いろいろなところに思いが巡る。新しい仕事を始めて1か月で、変わったことがたくさんある。仕事の内容、仕事への姿勢、家族への気持ちなど・・・

 

 

 

ただ、今日気になったのは、「手」だった。

 

 

 

手をこすり合わせたときに、乾燥がひどく、カサカサしていたからだ。乾燥しているのに、細かいしわに入り込んで落とし切れなかった油っぽい感じもある。職場では数えきれないほどの枚数の皿を洗うが、希釈した水につけただけで簡単に油汚れが落ちる業務用の強い洗剤を使っており、1か月で手の皮がカサカサになった。それと同時に分厚くなった、とも思う。お湯、ラーメンの器などの熱いもの、玉ねぎなどの刺激の強いもの、豚の背脂などの油っ気の強いもの、強烈な洗剤などの決して手によくはないものに日々の仕事でたくさん触れてきたからだろう。

 

 

 

夜のホームの待合室にいるが、店内の麺場で店長の補佐をしているところに意識が飛び、イメージが浮かぶ。待合室の風景は目に映らない。店長の手を見て思ったことを思い出している。

 

だらしないところもある店長だが、ラーメンを作る店長の手は職人の手である。スープを注ぐとき、たれを器に落とすとき、チャーシューを切るとき、すべての動きに無駄がなく、洗練されている。手の皮は分厚く、熱いものを熱い、と感じない。野菜の切り方を教えてもらった時も、爪が切りそろえられ、短い指のついた、男性にしては小さめの手がやけに力強く見え、十数年以上ラーメン店で料理してきた歴史が刻み込まれて、大きく感じた。どこかで似たような手を見たような記憶がある。どこかで。

 

 

 

その記憶が、父の手であることに気づくのに時間はかからなかった。わたしにとって、父の手には、強烈な印象があったからだ。

 

 

 

わたしはたたかれて育った。父の手は、大きかった。だから、たたかれるのは痛かったし、こわかった。父の手の記憶はそれだけではない。父もまた、熱いものを熱いと感じなかった。家族で一緒になべをして鍋のふたを持つとき、バーベキューで火をくべたり、熱いはずの鉄板を持つとき、どうしてお父さんは熱くないの?と思ったことが何度もあった。熱いものを熱いと感じない強い手。父の手は、回らないネジを回すことができ、組み立てることのできないプラモデルを組み立てられ、操作方法がわからない電子機器の操作ができる頼りになる手だった。

 

父の手は、偉大な手だったのである。このように父の手、とはわたしにとって、父親のイメージだと言ってもいい強烈な印象のあるものなのである。父は子供のわたしに、このような意図をもって手を見せた、ということはないだろう。わたしが父の手を見て、手で触れられて感じたのである。

 

 

 

では、わたしの手は、わたしの子にどのように見られているのだろうか。「手」は、父親像そのものにもなり得る。これは、わたしが一番よく知っている。わたしの父が意図して子供に手を見せたわけではなかったように、わたしも子供に意図して手を見せるようなことはしていない。しかし、思い返してみれば、手が子供に触れたり、見られたりすることは、実はかなり多くある。外出時は必ず手をつなぐ。子供の着替え、夜の歯磨き、ほめたときに頭に手を置く、風呂で体を洗う・・・「手」が父親のイメージになるには十分すぎるほど、手で子供に触れ、手を見せている。

 

子にとって、わたしの手は、どう見られているのだろうか。大きく、力強く、頼りになる偉大な手だろうか。

 

 

 

これからわたしの手は、料理人の手になっていくはずである。手の皮は分厚くなり、ガサガサになるかもしれない。しかし、わたしの父が「手」を通してわたしに強烈な印象を与えたように、触れたときの感触がどのようであっても、大切なイメージを伝えられるはずである。手は口ほどにものを言う。こどもに見られて恥ずかしくない「手」でありたい。