めんおうブログ

国家公務員からラーメンベンチャーへ転職した、30代男性の経験と思いと挑戦。時々、本などのブログ

最近、所帯じみてきたけれど、これは若い頃に思っていた「逃げ」ではなかったようだ。

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「所帯じみる」という言葉に前向きで魅力的な響きはまったくない。地味で、後ろ向きな印象だ。

 

その正確な意味は、以下のようなものらしい。

[動マ上一]考え方、態度などが、所帯持ち特有の生活臭を帯びて、はつらつとした感じがなくなる。「子供がいるのに―・みたところがない」

引用:goo辞書(所帯染みる(しょたいじみる)の意味 - goo国語辞書

 

その意味を知っていてもなお、31歳のわたしは、最近所帯じみてきたな、と思う。

 

だいたい決まった時間に起きて出勤し、シフトを終えて夜遅くに就寝する。これを週5~6回繰り返したら、1回休日になる。休日は、ゆっくりとした朝を迎え、日中は子供と近所で散歩したり、買い物したり。夜は料理したり、ブログしたり。もちろん、健全な野心も持ちつつ。

 

これを所帯じみる、と言わずに、何と言えるだろうか。

 

しかし、これはこれで、充実しているし、本当に幸せだ。幸せとは、所帯じみるということに言い換えられるのではないか、と思うくらいだ。

 

 

 

ただ、すべてが予想を大幅に上回ることがない、というか、先が見えるようになってきた、というか・・・予想を上回ることが起きても動じなくなった、というか・・・。昔よりも心の揺れ動くことが少なくなってきているな、と思う。

 

大学時代や子供が生まれる前は、優秀な成績で大学を卒業し、偉くなるんだ、政治や行政を変えるんだ、と野心に燃えていた。連休があればいつものように旅行や遠出をして知らない世界を知ろうとしていた。家にいるときも、映画や読書から新たな知識を取り入れようともがいていたような気がする。これも、知らない世界を知るためにしていたことだ。

 

若いころには、今のわたしのような感覚を持った人のことに対して、現実逃避、闘争からの逃げ、人生からの逃げ、というようなレッテルを貼っていたような気がする。あの頃には、まさか自分が所帯じみるとは思ってもいなかった(ホントに生意気だったんですね)。

 

 

 

しかし、今思えば、もっと若いころの自分は、知らない世界を知ろうとして必死になることも、そのやり方が正しいのか、やり方以前にそれ自体正しいのか、ということはわからずにもがいていたのではないだろうか。それを正当化するために、自分とは違うものに批判的なレッテルを貼る、という思考に陥っていたようにも思う。

 

 

 

若い頃の自分が今の自分を見たら「逃げんなよ」と言うかもしれない。

 

今の自分ならこう答えるだろう。

「そのうちわかるさ、今のうちにしっかり蓄えとけよ」と。

 

 

 

若いころに野心に燃え、もがきながら生きることは、走っている場所がどこなのか、ゴールがどこなのかを知らずに息を切らせて走ることに似ている。そればかりがいいとは限らない。周りの風景を見ながら歩くのも、ならではのよさがあると思う。このよさに気づくことが大人になる、ということなのだろうか。

 

若いころには「逃げ」だと思っていたものは、実は、自分に合った環境で少しずつ前に進む、ということだったようだ。31歳の今、こう感じている。

 

40歳、50歳の将来の自分は、今の自分を見たら何と言うだろうか。もっと走り続ければよかったのに、と言うだろうか。それとも、お前は歩いているつもりだったかもしれないけど、実は走り続けていたんだよ、と言うだろうか。

 

 

 

家族など、周りの人に対してはもちろんだが、あっという間に顔を出すだろう将来の自分にも誇れる日々を送りたい。おれの選択は正しかったんだ、と。

 

ただ、今は、周りの風景を楽しみながら歩きたい。今が最高に充実しているように感じるから。そして、いつか走らなければならないときのために。