めんおうブログ

国家公務員からラーメンベンチャーへ転職した、30代男性の経験と思いと挑戦。時々、本などのブログ

体罰としつけについて(日馬富士の暴行問題を受けて再度考える)

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日馬富士の暴行問題を受けて、一部のワイドショーでは、やっぱり体罰は悪い。ということを言っている人もいました。

この記事では、体罰としつけの違いとその是非について考えたいと思います。

 体罰としつけの違い

そもそも体罰としつけにはどのような定義があるのでしょうか。

体罰とは、「体に苦痛を与える罰」であり、

しつけとは、「礼儀・作法を教え込むこと」だそうです。

違いは明確で、

体に苦痛を与えることを前提としているか否か、

と言うことだと思います。

体に苦痛を与えることを目的としているか

とも言えそうですね。

ここで、よく議論になるのは、体罰を含むしつけの是非とういことになると思います。

体罰としつけの是非

よく学校の先生や暴力的な親などが「体罰」で逮捕される、といったニュースを目にします。

よく報道されているのは、明らかに行き過ぎた体罰であって、報道を見ていると正に、体に苦痛を与えることを目的にしているように思います。

これがよくないのは明らかですよね。そんな先生に子どもを預けたいと思いませんし、自分が子どもだったら、そんな親に育てられたいとは思わないでしょう。子どもの心には恐怖心しか残りません。

では、しつけはどうでしょう。

よく体罰と混同されることが多いと思いますが、正しいしつけ、というのは体に苦痛を与えることを前提としておらず、手段はどうあれ礼儀や作法を教え込むことなんです。

では、体に苦痛を与える手段も含むしつけは適切なのでしょうか。

教育(子育て含む)に必要なもの

これは、意見の分かれるところだと思います。

一元的に体に苦痛を与えた段階で、「体罰」とするのかどうか。

自分は、結局しつけの目的が達成できれば、多少の体への苦痛があったとしてもそれは体罰とは呼ばない。と考えます。

こんなことを言うと、もうお前のブログは読まない。と言われそうなので、ここで言わせて下さい。

「ちょっと待ってくれぇ!」

言いたいこと、大切なことはここからです。

すべては、信頼関係の上に成り立ち、指導する側がその信頼関係に基づいて適切な指導方法をとっているか、ということ次第

だと思うんです。

今書いたような考え方であれば、行き過ぎた「体罰」(怪我をしたり、教わる側が恐怖心を覚えるようなもの)なぞ、なくなると思います。それを超えてしまった段階で、それは「体罰」になるんです。

よく職場で言われているパワハラやセクハラも全く同じ構図だと思います。

指導する側と教わる側が、信頼関係で結ばれているか。これが全てです。

信頼関係で結ばれて、指導が適切であれば、体罰パワハラ、セクハラを受けた、とは思わないものだと思います。

だから指導するっていうことは、単純なものでなく、時間のかかるものだし、やりがいのあることなんだと思います。

これまた、言うは易し、行うは難し。ですね。

精進あるのみです。